文字校正(以下、校正)という仕事について、いろいろと読んだり考えたことを「ツェッテルカステン」というメモ方法※で書いたり、統合したりしているこの頃です。

※ツェッテルカステン、気になる方はググってもなんとなく理解できる記事が確認できます。

先週は複数の校正者と、リアルにお会いする機会にも恵まれ、この職業の難しさ、奥行きを感じたところでもあります。(出向いたのは、写真のとおり、浅草でした。)

歴が長い方ほど、このお仕事を全面的に「楽しい」と表現するのが少ない気がしており、職人気質だと思えばそれまでなのですが、文章の信頼を守る仕事ってどんな価値があるのかな、と立ち止まることもあります。

そこで、校正というお仕事について考えた道のりを、シェアしたいと思います。

バランスのとり方と、感覚的であること

仕事をしていて感じるのは、「攻めと守りがある」感覚です。

原稿を前にしたときの具体的な方法は、ここでは細かく述べませんが、調子のよい時にはどんどん気が付くし、思いやりのあるコミュニケーション方法も思い付きます。

反対に、体調や家族とのやりとりなどに引っ張られて弱っているときには、どんなコメントにも迷いが生じます。

「お節介すぎる?」「いや、これは大きな問題ではないから、スルーした方が良いのかな、それとも方針をお伺いする?」などなど、葛藤しながら繰り返し読んでいきます。

特に誤字脱字の訂正を中心としたクリティカルな誤りは「赤字」と呼ばれる入れ方をし、用字用語集が先方から指定されている場合など、ルールが明確であるほどに迷うことはないのです。

しかし、「鉛筆書き※」と呼ばれる「提案」や「疑問」のやり取りの部分では自分の軸が乱れる感触が生じることもあります。

 ※データ校正の場合は、鉛筆にあたるコメントは色分けして、確認方法もお伝えしています。

そのため、ほとんどの原稿は作業終了の翌日に、新たな気持ちで読み返してコメントを入れすぎていないか、反対に気付けていなかった視点はないか再度チェックしています。

これだけで必ずバランスが取れるか、といえば自信はないですが、それでも主観的にならないように、視点を変えて原稿に当たっています。

共感しながら「存在」を支える

私のお取引では、作業前にじっくりご希望をお伺いし、「コメントの入れすぎを避けること」あるいは「言い換えの提案をすること」等もお客様に合わせられるよう、やりとりをしてカスタマイズしています。できるだけ共感的に、校正作業に対するニーズを探っていくのですが、それでも、実作業では迷うこともあります。

結局頼りにするのが、著者さまの「存在」を感じ取る感覚と、バランス感です。ぴったりくる言葉がなくて「存在」としたのですが、好みの表現であったり、主張や文体、お人柄‥‥たくさんの要素が原稿ややりとりから感じられます。それをひっくるめて存在、としています。

脱線しますが、英語では「存在」に近い表現として「プレゼンス(Presence)」という便利な言葉があるようですね。存在感、貫禄、態度、風采といった複数の意味が含まれるようで、こちらのほうが意味としては、しっくりきます。

話をもとに戻すと、ココナラは個人のお取引が多いので、「こうしてほしいのかな?」と感じた場合にはYes/Noで答えられるような疑問をお伝えして、お聴きしています。

もちろん、法人案件であっても方針や表記ルール等、事前に細やかにお伺いすることで不要な手間があとから掛からないように配慮します。

その事前やりとりがきっかけになって、共感や意気投合したり、方向性が見えてくるのはお取引のなかで一番楽しい瞬間かもしれません。

ご購入に至らなかったやりとりで励まされたことも複数回あり、それらのご縁にも感謝しております。

●「ありがとう」の伝え方は以前、記事にしています↓

重さのある「ありがとう」を伝える

教わるのは「原稿(原文)尊重」。その先は‥‥?

校正の講座に通われた方は、「原文尊重」の姿勢も学んでいるのではないかと思います。すなわち、編集のお仕事ではないので、原稿に書かれた一言一句、そして文体や意図を尊重する姿勢です。

駆け出しのころは、その「積極的受け身」ともいわれる、ナゾの姿勢をとらえるのが特に難しく思っていました。‥‥正直に言えば、今のほうが経験が増えた分、難しさの幅は広がってしまったと感じます。

私はプライベートでは割とせっかちで、「積極性や好奇心」が勝ってしまうタイプなので、なおさら。

いまも「わかった!」と叫べるほどには「積極的受け身」を理解できていないです。でも、文字校正のお仕事は「信頼」を生産して、書く人・読む人を「尊重」する仕事なのかな、と感じ始めています。

人を“モノ”扱いしない

いまは生成AIで、コンテンツをどんどん制作できるようになりました。

私も教えるお仕事のときや編集に関わるときには「図表」をつくるときに生成AIが大活躍してます。いわゆる「たたき台」には時間を掛けたくなくて、解釈も含めてやってくれるAIは本当に助かります。

でも、これから私たちが選ぶようになるコンテンツはきっと人の手が掛かったと感じられるものだと思います。

文章でいえば、漢字/仮名の使い分けで表れるニュアンスや美しさ、言葉のリズム、独特の描写など、著者それぞれ特有の表現を引き続き楽しむのだと思います。

もちろん個人差はあるでしょうし、私自身、若い時には「手作りなんて」と思っていました。手を掛けることの豊かさを理解しようともしていなかったんですよね。なにを生き急いでいたのか、“非効率”だとも感じたり。

それに、目的次第では、文章にしても多少の誤字が許される場合もあるでしょう。ただ、人が時間を割いて読むもので「刺激だけ」を目的とするものは、ほとんど存在しないと思っています。意味が伝わらなければ、存在する意義が薄れてしまうでしょう。

大量に生成AIでコンテンツが制作されたとして、修正などの作業を経ずに世に出たものは人は(まだ)見抜けると思っています。精度が上がったとしても、人をモノ扱いして、「客寄せコンテンツを量産」のような流れには個人的には触れたくないなぁと思います。

「やられたくないことは、人にもしない」という子どものときに教わった初心に立ち返って、これからも、ていねいに校正していきたいと思います。

文章はやはり、誤解を生むような表現や、立ち止まって解釈しなければならない状況、そして単純なミスは避けられていた方が素敵だなと思います。

同じプレゼントでも、美しくラッピングされている方が嬉しいように‥‥。

上の写真は、あるお店でラッピングしてくれた、母の日にプレゼントした物です。中は基礎化粧品なのですが、かわいい!とテンション上がるのは高齢の母も同じでした。

思いやりを差し出したり、言葉にするのって本当に難しいですが、お仕事を通じてお手伝いできれば幸いです。

関連記事

  • 関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP